丸谷才一さんの『綾とりで天の川』という随筆集の中に「野球いろは歌留多」と題されたお話がありました。
題名のとおり、野球いろは歌留多を作るろうという趣向です。僕が割りと野球好きなのと、著者の文章の芸とで、実に楽しめました。少し紹介しましょう。
まずは「い」、これは「開巷第一ですから、景気よく、柄が大きく出なくちや恰好がつかない」から難しいと言い、あれこれと悩みます。その件も面白いのですがここでは省略。そしてたどり着いたのがこれ。
い いはゆる一つのプロ野球
うん、お見事。野球いろは歌留多の巻頭を飾るのにこれ以上相応しい文句は無いですね。さて、次に行きましょう。ちょっと飛ばして「と」
と 投手のサヨナラ・ホームラン
これは意外に多いもので、ペナント・レースで18回ある。
国鉄・金田は二へんも。さすがは金田。
しかしすごいのは1973年8月30日、阪神と中日のゲーム。阪神・江夏は中日をノーヒットに抑へたまま九回を終る。延長戦にはいつて十回表、十一回表もノー・ヒット。
十一回裏、江夏が自分でサヨナラ・ホームランを打ち、ノー・ヒット・ノー・ラン達成。
脱帽するしかないよ。
しかしもう一つ特筆大書すべきものは1958年10月17日、西鉄と巨人の日本シリーズ第五戦での3対3の延長戦、十回裏、稲尾がサヨナラ・ホームラン。
歴史的といふよりもむしろ神話的。「神様、仏様、稲尾様」だから当然だけれど。
薀蓄を傾けながら、偉大な記録を楽しく教えてくれます。その偉大さがひしひしと伝わってくるようです。つぎは「を」
を 男の子ならここで打て
野球解説者は野球に詳しくて、頭がよくて、話が上手で、話しっぷりが明るくて、それにもちろん現役時代に実績があればなほいいが、意外に忘れられてゐるのが声がよくなければならぬこと。それらの美質をことごとく備へたのが豊田泰光。チャンスが到来して、子規ならば「そゞろに胸の打ち騒ぐ」とき、彼はただ一言、
「ここで打つたら男の子」
と声をかける。
いいねえ、あの呼吸
いいねえ、この調子。僕は豊田泰光の解説なんて聞いたこともないですが、その情景が浮かんでくるようです。ぜひ一度聞いてみたい。
よ 4番をずらり並べたあげく
解説を略す。
これは2004年に書かれた文章です。当時の某球団は本当にこんな野球をしていました。いつのまにか本当に強いチームに変身しましたけどね。
つ 月に向かつて打て
飯島コーチが大杉選手に言つた名せりふ。豪快でいいですね。
うん、いいですね。
け 藝の極致は空タッチ
あれは phanto tag といふんださうですが、わたしは好きですね。
なかんづく、若菜の空タッチのすばらしさ!右の脇の下にボールをはさんで、左手のミットで走者にタッチしてアウト。
これがテレビにバッチリ撮られてゐたせいで、あとで審判に詫びたといふのも御愛嬌。
「いいよ、いいよ」といふ返事だつた由。
野球の多様な魅力の一つを伝えてくれます。著者の野球への愛情が感じられる一文ですね。
あ 綽名をもらへるいい選手
政治家は綽名がついて一人前なんださうで、その点「ワンマン」吉田茂なんか、千金を投じるに値するすごい綽名だと当時の某長老は評したとやら。
吉田自身、自慢だつたらしく、
「わたしの総理在任中に、ワンマン・バスといふのが出来ました」
と言つたさうだ。
そしてこの「ワンマン」に匹敵するものは各界を通じてただ一つ、「ミスター」しかない。
いやあ、鮮やか。 思わずにんまりしてしまいます。
み みんなが見たいホーム・スチール
新庄選手の、オール・スターでのホーム・スチール。よかつた。あれでこそプレイヤーである。プレイヤーは選手と訳してもいいし、藝人と訳してもいい言葉。
でも、オール・スターでのホーム・スチールは二度目で、初回は1978年の蓑田(阪急)ですつて。
ただし彼はダブル・スチール。単独は新庄がはじめて。
この次は一つ、トリプル・スチールを見せてもらひたいね。
ここでちよつと雑学を披露すれば、トリプル・スチールの主役は三塁走者。その三塁走者を二へんやつた選手がゐて、一人は原田徳光(名古屋)、もう一人は野村克也(南海)。
へえ、あの野村がねえ、と思ふでせう。それも一シーズンに二回だといふ。
「盗塁は脚ぢやない。頭です」
と言つたといふ。彼はホーム・スチールに七回成功してゐる。
当時の興奮が蘇ってきて、やっぱり新庄選手はよかったよなあなんて感慨に耽っていると、目の玉が飛び出るような情報が飛び込んできました。へえ、あの野村がねえ。最後の一文がなんとも恰好いいですねえ。
まだまだ沢山ありますがこの辺にしておきます。興味のある方は是非読んでみてください。ああ面白かった。