話題の映画『国宝』の原作者である吉田修一さんの小説にいけばなの描写を見つけました。的確に活写されていて、いけばなをする身としてはとても楽しく読めました。ご本人が習っていたのでしょうか。あるいは丹念に取材したのか、いずれにしてもしっかりと描けていると思います。
ばあさんの前には、広口の花器と万年青の束が置かれてあった。
「おも前も学校出たら、幸之介と一緒に働くんか?」
「たぶん」
ばあさんは、万年青の葉をパチンと切った。…(中略)…
広口の花器にたっぷり張られた水へ、青々とした万年青の葉が挿される。その手元辺りが、妙に静まっていた。
『flower』/吉田修一
「へんな所に住んでますねぇ」
『flower』/吉田修一
鞠子は、遠慮とはさせるもので、するものではないと思っている。僕は慌てて彼女を睨んだ。
「だって、へんじゃない!」
「そう、へんだよ。へんな所を捜したんだから」元旦が言った。
「こういう部屋が好きなんですか?」
「好きっていうか、床の間あるし……」
元旦の視報を追った僕と鞠子は、驚いて顔を見合わせた。床の間に、細長い花器に、しょうぶの花が高々と生けられていたのだ。
「生け花? もしかして自分で?」
「そう、俺が生ける。でも、てきとうだよ。ちゃんと習ったことないし、我流だよ、我流」
「珍しいですね。男の人が生け花やるなんて。でも、うちのも、こう見えて結構、花には詳しいんですよ」
「石田も、生けるのか?」
大袈裟に驚く元旦の目から逃れるように、僕はもう一度床の間へ視線を戻した。
「いや、田舎で一緒に暮らしてたばあさんが、よく生けてたんで、ちょっとだけ真似たことあるけど、すぐに飽きちゃって……。でもプラモデル作ってるみたいで楽しいですよね」
高々と伸びたしょうぶを眺めているうちに、ばあさんの家を思い出していた。僕らの上京を機に取り壊され、幸之介夫婦と彼の両親が二世帯住宅を建てることになっていた。新しい家は洋風で、床の間はないはずだった。
昔、花を生けているばあさんに、「床の間って、花を飾るための場所や?」と聞いたことがある。ばあさんは「床の間ってのは、その家のゆとりたい」と答えた。
「ゆとり?俺には無駄に思える」
「ゆとりってのは、無駄のことさ」
そう言ってばあさんは、白椿の一輪生けでそこを飾った。
ばあさんが花を生ける姿を、僕はいつも縁側で寝転がって眺めていた。
『flower』/吉田修一
簡単に言えば、花を生ける時には花器の上に透明な球体があると考えればいい。花は球体の内部に生けられる。花器から上方中心へと伸びる役枝を真といい、真に添って陽方へ副が伸び、陰方へ体が伸びる。生花は、この三つの役枝によって構成される。
あるとき、「やってみるか?」とばあさんが花を差し出すので、ゴロゴロと畳の上を転がって、面白半分に挿してみた。切り口の鋭い茎を、水の中の剣山に差し込むと、ひやっと指先が引き締まった気がした。
「そう押したら、乱れてしもうて、落ち着かんやろ」
「そうかな」
「ほら、こう挿せば、葉裏が見えて風情がある」
抜き取られた花は、ばあさんの手で挿し直された。からだを起こし、胡座をかいて眺めてみると、確かに違う。
「風情って、何や?」
「何やって言うて、風情は風情さ。涼しそうに見えるやろ?」
「涼しければ風情や?それなら扇風機もクーラーも風情やっか」「扇風機やクーラーをいくら見たって涼しくならんけど、氷を見れば涼しくなる。そこが違う」
初めて挿した花は、薄紫のかきつばただったと思う。
花には性情がある、それを生かしてやればいい、とばあさんは言っていた。いつの頃からか、縁側で寝転んでいる時、ばあさんが花を生け始めると、ついつい手を出すようになった。蚊に食われた足を掻きながら、胡座のままで花を生けた。ばあさんも真剣に教える気など更々なく、僕が自分用の花器に水を張って横に座ると、子供におもちゃを与えるように花を渡してくれた。そして口を出すこともなく、熱心に生ける僕を完全に放っておいてくれた。ただ、何度も挿し直す僕に呆れて、「あんたも執念深い男やねぇ。そう何度も押したら、花が傷む」と、ときどき叱ることはあったが。
僕は、花しょうぶやかきつばたのような長葉物より、頑丈な梅や椿などの枝物を好んだ。もちろん一人で生けることはなく、あくまでもばあさんがやっている時にやるだけだ。自分で花を買ったこともなければ、庭で摘んだこともない。ただ一度だけ、ばあさんが入院した時に一人で生けたことがある。お見舞で貰った花があまったから持って帰れと言われ、その日一人で生けてみたのだ。濃い紅葉色のアネモネだったと思う。ああでもない、こうでもないと一人で挿し直しているうちに、急に寂しくなった。新聞紙で花を包んで、ゴミに投げ捨てた。濡れた新聞の匂いが、いつまでも手に残った。
この世にある花の数だけ、人には感情がある。これもばあさんから聞いた言葉だが、なんとなく、そんなもんかなと思うこともある。
タバコに火をつけた永井さんに、灰皿を差し出した元旦は、笹ゆりを生けた花器を持ち上げ、丁寧に床の間を飾った。一、二歩下がって眺め、「なかなかいい出来だよな?」と僕を見る。「あの葉は、いらないんじゃないですか?」と口を挟むと、「どれだよ?」と言いながら、床の間へ近寄っていく。
『flower』/吉田修一
「それですよ。その一番上の花の、すぐ下の……いや、それじゃなくて」
青畳を這って行き、花の下に重く垂れる一枚の葉を指差した。
「言われてみれば、そうだなぁ」
元旦が葉を引き千切り、しだれた笹ゆりが大きく揺れた。もう一度離れて眺めていると、「でも、それを取ると、なんか間が抜けた感じだな」と、永井さんまで口を出してきた。
しばらくの間、ああでもない、こうでもないと三人で言い合った。これまでも永井さんの愚痴を聞きながら、元旦はこのように花を生けていたのかもしれない。さっき僕は味方だと言われて戸惑ったが、無骨な指で花をいじる二人の背中を見ていると、だんだん名誉なことにも思えてきた。ただ、元旦は、永井さんの妻を寝取っている男なのだ。花びらをいじりまわす二人の背中を、僕は改めて見下ろした。
「考えてみると、花って、いやらしいですよねぇ」と元旦が言い、「どうして?」と尋ねる永井さんに、「だって、この花びらの中に男と女、二つの性器が揃ってるんですよ」と笑っていた。
