遅読の賛

学生時代はドイツ語を学んでいました。とても出来の悪い生徒で、結局6年間もドイツ語をやる羽目になってしまいましたが、最後に担当してくださった荒井先生がとてもよくて、それまで苦痛でしかなかった語学の時間が少しだけ楽しくなったのを覚えています。

その授業の中で、関口存男という高名な独語学者が書いた「遅読の賛」と題された随筆を紹介して貰いました。私のいけばなやその他諸々を学ぶ姿勢に通じるものがあり、またその語り口の軽妙なところがとても気に入りました。配られたプリントは今でも大切に持っています。短い文章なので以下に全文を引用します。

辞書と首っ引きでポツポツ読む外国語には、その遅々たるところに、普通の人の気の付かない値打ちがあります。それは“考える”暇が生ずるということです。否が応でも吾人を“考える”人間にしてくれるという点です。
どんな好いことが書いてあっても、スラスラ読めたのでは、マア、大した効果はありません。どんな下らないことが書いてあっても、その数行を繰り返し読まなければならないとなると、それに関係したいろいろなことをついでに考えるから、上すべりして読んでいる際には気のつかないいろいろなことに気がつきます。いわんや、多少下ることが書いてある場合には、それを何度も読み直したり、その数行を眺めたまま五分も十分も考えこんでしまったりするということは、単にそれを書いた人の真意に達する機縁となるばかりではない、時とすると原著者の意図しなかったところへまでも考え及ぶという効果をともないます。
情けないことには、御同様“人間”というやつは、とかく、考えないように考えないように出来ている。上すべりするように上すべりするように出来ている。スラスラ読める母国語ばかり読んでいると、うっかりすると、上すべりした、ツルツルした、平坦な人間になってしまうおそれが充分あります。
この平坦なツルツルした意識にブレーキをかけて、否が応でも一箇所を凝と眺めて考えさせるという効果、・・・外国語をやる主な目的は此処にあるのではないでしょうか?
本当は、翻訳をしてみると、なお徹底します。どんな文章でも、これを全くたちの違った日本語でいいなおすとなると、原文を正しく理解しただけではまだ駄目です。原著者と同じ気持ちにならなければダメです。否、時とすると原著者以上のところへまでも乗り込まないと、その同じことを責任をもって引き受けて本当に日本語で再現することはできません。そのためには、何度も何度も同じ個所を読みなおして、自分自身の考えを叩きなおす必要が起こってくる。問題は此処です。
考える力というものは恐ろしいもので、どんなツルツルした平坦な馬鹿野郎でも、否でも応でも考えないわけには行かないように仕向けられるというと、長い年月の間には、相当いろいろなことを考えるようになります。いったん考える癖がつくと、時とすると、何かのはずみに、甚だ馬鹿野郎らしくないことを考えて、自分でビックリすることすら起こって来ます。そういう馬鹿野郎が一つ間違うと、文豪になったり、詩人になったり、偉人になったりしてしまうのです。偉人とか何とかというのは、どうせみな、間違っているのですからね。一つ間違ったくらいではならないが、二つ三つ間違うと、偉人とか天才とかいったとんでもないものになってしまうのです。間違いほど恐ろしいものはない。
だから、そんなことになっては大変だと思う人は、あんまり一つのことをシツコク考えてはいけません。スラスラと、人の書いた通りに読み、人の考えた通りに考えておくのがいちばん安心です。語学のやり方にもそんなのがある。
けれども、なんなら天才になったって構わない、と考える人は、あらゆる機会を利用して、自己独特の考え方を育成しなければなりますまい。ただし、その自己独特の考え方というやつは、自分ひとりで眼をつぶって考えていたって出て来るものではありません。人生は、たとえ大根一つ植えるのだって、最初はみんな人真似なんですから、ます真似をしなければならない。問題はどういう風にその人真似をするかです。
他の方面のことは知らないが、思想、文学、その他いやしくも“文”に関係のある方面のことがらは、すべて“遅読”が出立点ではあるまいか、と私は語学者らしい妙なことを考える次第です。
これには、私自身の経験もたぶんに加味されています。語学者として世渡りするためには、実のところを言えば、別にそう大した考えを要らなかった。常識の範囲に終始し、人の考えそうなことを考え、人の言いそうなことを言うのが、これがむしろ語学の本義ですから。・・・ところが、数行の文を、本当に責任をもって人に理解させようとすると、どうしても、それを一応すっかり自分の考えにするために、何度も何度も読む、或いは遅読する必要が生ずる。現に教室での語学はすべて遅読です。・・・この遅読によって、私の頭の中には、別に語学とは当面何の関係もないような、いろいろな趣味とか道楽が生じて来た。形容詞の語尾や動詞の変化とは直接大した関係はないのですが、語学を離れて、“そもそも人生というもの”が面白くなってきたのです!人は、語学の副産物と言うかも知れないが、副産物にしては、これはあまりにも本問題すぎる!“人生が面白くなった”なんて副産物は、これはもはや副産物ではない。こうなると、もはや主副を逆にして考えたほうが正しいでしょう。
語学には直接大した関係はない、と言ったが、“間接”には大関係があります。ここも問題が逆になって来るわけで、語学にとっては、直接に関係のあることよりは、むしろ間接に関係のあることのほうがズッと直接に関係がある・・・ということが、あとになって分かって来た!
そして、それらすべてが、外国語が遅々としか読めなかったおかげなのです。