「夜のくもざる」より

久しぶりにお気に入りの文章の紹介です。村上春樹の短篇小説集「夜のくもざる」より「もしょもしょ」というお話です。短いので全文を引用します。

 月曜日にぼちょぼちょに良いことをしたら、水曜日にもしょもしょが僕のところにやってきた。「どうも先生、先日はぼちょぼちょがなんかえらいお世話になったちゅうことで」ともしょもしょは言った。
「あんなものたいしたことではないんです。日本人として当然のことをやっただけのことです」と僕は言った。僕はわりに謙虚なのだ。
「いやいや、何を水臭いことをおっしゃらはる。ほかならぬこのもしょもしょに謙遜なんかしはらんでもええやないですか」と言って、もしょもしょは顔の前で団扇みたいにぱたぱたと手を振った。「そいでね、こんなことしてひょっとして気をわるうしはるかもしれまへんけどな、これはまあ気持ちだけのお礼ゆうことで、よっしゃゆうて、そこんとこ気持ちよう受け取ってもらえしまへんやろか」
そしてもしょもしょは僕に紙袋を差し出した。のぞいてみると、なかにはくりゃくりゃが入っていた。
「いや、あなた、いくらなんでもこんなものをいただくわけにはいきませんよ。これはくりゃくりゃじゃありませんか」と僕はあわてて言った。
「なんや、くりゃくりゃはお嫌いでっか?」ともしょもしょは言った。
「いや、もちろん嫌いというのではないですが……」
「ほんなら、ええやないですか、先生。もしもらうのに抵抗あるゆわはるやったらですな、とりあえずここにちょっと置いていきまっさかい、そこんとこよっしゃゆうて、好きにつこて楽しんでみはったらええでしょう」
僕はずいぶん抵抗したのだが、結局もしょもしょは、くりゃくりゃの入った紙袋を玄関に置いて帰ってしまった。僕はやり場に困って、その紙袋を押し入れの奥に隠しておいた。そんなものいくらなんでも玄関に置いておくわけにはいかない。女房に見つかっても誤解されかねない。もしもしょもしょがお礼にくれただなんて言ったって、いったい誰がそんなことを信じてくれるだろう?だいたいぼちょぼちょのことなんて知らん顔してほうっておけばよかったのだ。柄にもなく仏心を出すからこんな羽目になる。
僕は弱り果ててぼちょぼちょに電話をかけた。「あのね、さっきもしょもしょが家に来てね、くりゃくりゃを置いていったんだよ。お礼だって言ってさ。困るよ、君」
「ええんですよ先生、気にせんでも、あれ」とぼちょぼちょは言った。「もしょもしょは税務署の対策で、いずれにせよあれ誰かにやらなあかんかったんですわ。もろときなはれ、もろときなはれ。なかなかええもんでっせ、あれ。奥さんのほうには私のほうからうまいこと説明しときますさかい、そんなもんよっしゃゆうて、もろといたらええんですわ」
というわけで、僕は今くりゃくりゃを毎日のように堪能している。使ってみると、思ったよりずっといいものだ。手放せなくなりそうだ。