「君たちはどう生きるか」より

お気に入りの文章の紹介です。吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」の一節です。やや長いのですが、とても気に入ったので、ここに記しておきます。

 コルペ君が玄関に駆け出していって見ると、北見君が立っていました。北見君は、ぴったり一時に、コルペ君のうちに着いたので得意でした。十五分ばかりおくれて、水谷君もやって来ました。
そこで三人は、二階のコルペ君の部屋で、三時頃までいろいろなことをして遊びました。トランプ、闘球盤、将棋、シャーロックホームズ……。どんなに愉快でしたろう。いつも水谷君と二人きりのときには、楽しくても静かなものでしたが、この日は、北見君が一枚加わったばかりに、たいへんにぎやかでした。三人は、何度、おなかが痛くなるほど笑ったか知れません。一通り室内遊戯をやってしまうと、今度はコルペ君が、
「早慶戦を聞かしてやろうか。」
と、言い出しました。
「早慶戦て、レコードのかい。」
「ううん、ラジオさ。僕が放送するんだよ。」
「へえ。」
コルペ君は、ラジオの箱をはずして来て机の上に置きました。それから風呂敷をかぶって、その後にしゃがみました。
やがて放送がはじまりました。
「……紺青の空晴れ渡り、風は落ち、神宮球場には砂埃一つあがりません。センター後方の大日章旗がわずかに風にゆれているばかり、正に絶好の野球日和であります。正に絶好の野球日和であります……」
「うまいぞ!」と、北見君が声をかけました。
「城北の雄、早稲田!城南の雄、慶応!」
と、コペル君は、少し気取った声でつづけました。
「この両雄の戦いが、わが球界の華と謳われてここに三十年!今なおこの一戦は、全国数百万のファンを熱狂せしめずには止みません。母校の名誉、校友の期待、しかして三十年の伝統、思えばこの一戦は……」
なるほど、自分でやろうと言い出しただけあって、なかなかうまいものでした。
「……その熱戦を三十分後に控えて、神宮球場は、今や、期待と感激に渦巻いております。すでに早朝より、グラウンドをめぐる大スタディアムは、数万の観衆に埋められて、ただ今では、もう立錐の余地もありません。両校の応援団も、あるいは内野に、あるいは外野に、指定の席にあふるるばかりつめかけております。三塁側は慶応、一塁側は早稲田、各々ブラスバンドを擁して、戦前から盛んに気勢をあげております……」
「選手はまだかい。」
と、水谷君が口をはさみました。
「いまやるよ。」
と、ラジオが答えました。
「あ、一塁側から、早稲田の選手の入場であります。揃って鼠色のスウェーターを着ております。満場総立ち!満場総立ち!お聞き下さい。万雷の拍手です。早稲田の応援団が立ち上がりました。選手を迎えての合唱であります。」
そこでコペル君は、出来るだけ太い声を出して歌いはじめました。
紺碧の空 仰ぐ日輪
光輝あまねき 伝統のもと
北見君も、すぐにコペル君に加勢して歌い出しました。
輝く精鋭、闘志は燃えて
理想の王座を……
しかし、二人で応援団の代りをつとめるのは、楽じゃありません。北見君も出来るだけ物凄い声を出しました。
ワセダ
ワセダ
覇者 覇者 ワセダ
「……つづいて、三塁側から慶応の入場!森田監督に率いられて、選手の入場であります。これを迎えての、慶応応援団の合唱!お聞き下さい。見事な合唱であります。」
今度は、コペル君は少し調子を変えて、高い声で歌いました。
若き血に燃ゆる者
光輝満てる我等
すると、水谷君もきれいな声で、これに合唱しました。
希望の明星 仰ぎてここに
勝利に進む わが力
つねに新し
見よ 精鋭の……
ラジオは、なお放送をつづけます。
「両軍の練習がはじまりました。早稲田の選手が、グラウンドに散ってゆきます。フリーバッテングです。さて、ここで両軍過去の戦績を申しあげますと、明治三十八年……」
「そいつは、いいや」
と、北見君がいいました。
「だって、これをいわないと、早慶戦らしくないぜ。」
ラジオが不平そうな声を出しました。
「でも、いいよ。早く試合をした方がいいや。」
「そうかなあ。じゃ、そうしよう……」
ラジオは、折角の知識を出しそこなって残念そうでしたが、北見君の註文にすぐ従いました。
「すでに両軍、シートノックをおわり、試合は正に開始されようとしています。先攻は早稲田。慶応が守備につきました。慶応の投手は楠本君、マウンドにのぼって、いま笑っております。早稲田の第一打者佐武君がボックスにはいりました。プレーボール!」
突然、コペル君がへんな声でうなりました。
ウーウ、ウーウ、ウウーウ
試合開始のサイレンのつもりです。
こうして、試合ははじまりましたが、試合は進につれて大混乱でした。はじめのうちは、それでも両軍得点なしの回もありましたが、四回に早稲田が一点収めてからは、毎回両軍にヒットがあり、毎回得点があります。何しろ、慶応が一点でも二点でも取ると、北見君は、
「ちぇッ、そんなのないや。」
といいます。そこで、コペル君は、慶応のエラーに乗じて、早稲田に一、二点取らせてやります。すると、今度は水谷君が、
「慶応は、そんなエラーしやしないよ。」
と、抗議を申しこみます。アナウンサーのコペル君は、二人の都合のいいように試合をすすめてゆくのに、とても苦心がいりました。試合は、どうしたって、猛烈なシーソーゲームにならざるを得ません。抜きつ抜かれつ接戦をつづけて、ついに九回の裏に入りました。早稲田の守備、慶応の攻撃、早稲田一点の勝越しです。
「走者一塁、三塁!慶応のバッターは、キャプテン勝川君!守っては軽快無比、打っては三番の重責を負う名手勝川君!アウトの数は、すでにトゥーダウンでありますが、走者三塁にあって、ワンヒット・ワンランのチャンス!ここで一本ヒットが出れば、たちまち同点です。ボール・カウントは、ワンスリー。老巧若原君は、ひょっとすると、わざとフォアボールを投げて、次の打者を打ちとる考えかも知れません。」
「だめだ!三振にしなきゃあ。」
と、北見君はどなりました。
「若原君プレートにつきました。ふりかぶって第五球のモーション。投げました。打ちました。いいあたり!球はぐんぐんのびて、左翼へ飛んでいます。左翼手懸命のバック。バック。バック。――ああ、抜かれました。球は左翼手の頭上を抜いて、観覧席の下にあたりました。三塁の走者、ホームイン!一塁の走者も脱兎のように走っております。三塁を越えました。あ、ホームを踏みました。ホームイン!慶応の勝、慶応の勝、慶応の勝!勝川君、堂々たる三塁打、慶応二点を得て、ついに勝ちました。ウーウ、ウーウ、ウウーウ……」
だが、このサイレンはおしまいまで鳴ることが出来ませんでした。北見君が立ちあがって、ラジオのコペル君に飛びかかったからです。
「こら、ラジオ!だまらないか。」
北見君はそういって、風呂敷をかぶっているコペル君の頭を、風呂敷ごとおさえつけました。
「ああ、たいへんです。たいへんです。」
コペル君は風呂敷の中で叫びました。
「ただいま、暴漢があらわれました。」
「こうら、だまらないか。だまらないか。」
「暴…暴……暴漢は、早稲田びいきです。」
「こいつ!」
北見君は真赤な顔で笑いながら、コペル君を上から、うんうんと押しました。コペル君は、押されながら、なおつづけます。
「暴漢は……放送を……放送を邪魔してます。アナウンサー……ただいま……懸命の放送!」
北見君がふき出しました。その隙にコペル君が立ちあがろうとしたので、二人はからみあったまま、机のわきに倒れました。ラジオの箱が驚いて、机の上からころがり落ちようとしましたが、これは、水谷君が駆けつけてタックルしました。
北見君が手を放し、コペル君は風呂敷を頭から取りました。二人は、畳の上にころがったまま、まだ笑っていました。コペル君の頭は、北見君のおなかの上に乗っていましたから、北見君の笑うたびに、おなかの振動がブルンブルンと頭に伝わりました。
「ああ、くたびれた。」
コペル君は、ぐったりした恰好をして見せました。北見君も、腕を投げ出して一休みしました。それで、水谷君も、あああと言って、そばにねころびました。
それから三人は、しばらくの間、黙ってねころんでいました。もう、お互いに口をきく必要もありません。黙ってねころんでいるだけで、どんなに楽しかったでしょう。――外は秋晴れのいい天気でした。明け放した障子の間から、廊下を越して、庭木にかこまれた隣の屋根が少し見えるばかり、手すりから向こうは、もう、青々と澄んだ秋の空でした。その空を、真綿を引きのばしたような雲が、だんだんに形を変えながら、ゆっくりと流れてゆきます。コペル君は、遠く遠く省線電車の通り過ぎてゆく音を、何かうっとりとした気持ちで耳にしていました。