古代国語の音韻に就いて

※以前に別のブログで書いたものを記録用に写したものです。仮名遣ひが異なりますので慣れない方は若干読み辛いかも知れませんがご容赦下さい。

橋本進吉といふ高名な国語学者が一般向けに日本語の音に関する講演をしたときの様子を記録したものを読みました。これが大変興味深い内容だつたので、以下に要旨を纏めてみました。ただし、専門的なことは端折つてありますし、私の理解が間違つてゐるところもあらうかと思ひます。これを読んで興味を持つた方は、たしか岩波文庫で「「古代国語の音韻に就いて 他2篇 」といふ表題ででてゐたと思ひますのでそちらをお読み下さい。

【万葉仮名】

(※これはこの本に書いてあることではないが、前提として知つておかないと内容を理解しづらいと思ふので簡単に記しておく。)

現代では「仮名」といふとひらがなとカタカナの二つだが、奈良時代にはこれらは無かつた。音を表すのにも全て漢字を用ひてゐた。例えば「ア」といふ音を表すのに現代では「あ」又は「ア」と書くが万葉仮名では「阿」「婀」「鞍」「安」など様々な文字を用ひる。

現代、我々が万葉集に掲載されてゐる和歌を目にする場合、普通は漢字かな混じりに書き換へてあるが、実際には全て万葉仮名で書かれてゐるのである。

(例)
君が代もわが世も知るや磐代の岡の草根をいざ結びてな
君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名

【言語の音について】

口で発音することの出来る音はほぼ無数である。言語としてはその内の幾つかのある決まつた音だけを用ひる。

(例)「match」の「ma」と「much」の「mu」は日本語ではともに「マ」と聞く。英語では異なる音として聞いてゐる。

言語によつて用ひる音の数は決まつてゐて、異なる言語間のみならず、同一言語内においても時代によつてその数に相違がある。

【日本語の音の変遷】

※ここでは簡単にするため話を清音に限つてゐる。

・いろは四十七文字

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす

この中で「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」はそれぞれ同じ発音である。だが表記に区別があるのはどういふことか。そこで、同じ語が色々な場合で、どういふ万葉仮名で書いてあるかを調べた。

(例)「オロチ」は古事記では「遠呂智」、和名抄では「乎呂知」と書いてある。
→「を」遠、鳴、怨、乎  「お」意、於、淤、乙

「お」に当たる語は二つの郡に分けることができ、両者は混合しないことがわかつた。「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」についても同様。これを調べたのは契沖という江戸時代の学者。契沖はこれを昔の人が作つた決まりと考へたが、研究が進んでこれは発音の区別に基づいたものと考へられるやうになつた。つまり現代では「い」も「ゐ」も「イ」と発音するが、昔は別の音だつたといふ風に考へられるやうになつた。

・天地の詞
「いろは」以前に使はれてゐた。四十八文字(「いろは」より1文字多い)である。

あめつちほしそらやまかはみねたにくもきりむろこけひといぬうへすゑゆわさるおふせよえのえをなれゐて

「え」が二回出てくる。これも同じやうに万葉仮名を調べると二群に分けることが出来ることがわかつた。つまり現代では表記も一つになつてゐるが、昔は別の2音が存在してゐて、それが次第に発音の区別がなくなり、次に仮名としての区別も無くなり同じ「え」として表されるやうになつたと考へられる。

「い」と「ゐ」のやうに発音は同じながら、表記が違ふものを調べたところ、昔は厳然とした区別があり発音も異なつてゐた、つまりは全く別の語であることがわかつたのだが、「え」のやうに字を見てもわからないものまで、昔は二つの音に分かれてゐたといふことが分かると、他の仮名についても当然のように同様の事が想像される。そこで全ての仮名について調べた。すると奈良時代には「え」、「き」、「け」、「こ」、「そ」、「と」、「の」、「ひ」、「へ」、「み」、「め」、「よ」、「ろ」の13が、さらに古事記ではそれに加えて「も」の14の仮名についてそれぞれ二つの郡に分けられることが分かつた。つまり昔はもつと音の数が多かつたのである。

※ここで気をつけたいのは、便宜上例えば「き」が二つに分かれてゐるやうに書いてゐるが、事実においてはただ二つの音が存在し(例えば「あ」と「か」があるやうなものである)、それが後に一つの「キ」といふ音になり「き」と書かれるやうになつただけのことである。

まとめると、奈良時代頃に二つの音が一つの「も」になり、平安時代に入ると上記の13の内「え」をのぞく12文字についてそれぞれ発音の区別がなくなり、すなはち天地の詞で表される48音になり、さらに100年ぐらいで「え」の区別もなくなり47音すなはち「いろは」になり、平安中期ごろには「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」も発音上の区別は無くなつたやうである。現代では発音上は44文字を区別してゐる。

【古典研究への効果】

上記のやうな事実を知ることが古典研究においてどのやうな効果をもたらすか。

・本文の確定
古典の本文は色々に分かれてゐる。これは現代に残つてゐるのが全て写本だからである。(基本的に平安時代ぐらいの書物で原本が残ってゐるものは無い。)例えば万葉集の古い時代の写本に「夜曾降家類」(ヨゾクダチケル)とある。ところが、「夜」の字に「与」を当てているものが見られる。しかし「夜」と「与」は違う群の字で、つまり当時においては発音も異なる別の語であり、夜の意味の語に「与」を当てたのは間違いであるといふことが分かる。

・解釈
万葉集で「朝爾食爾」(アサキケニ)といふ語と「日爾異爾」(ヒニケニ)という語がある。良く似てゐるので「あさきけに」の「けに」と「ひにけに」の「けに」を同じ用法で解釈してゐるものもあるが、「食」と「異」は異なる群の字で、つまり当時においては発音も異なる別の語であり、両者の「けに」を同じ用法と解釈するのは誤りであることがわかる。

・著作年代の確定
例へば「歌経標式」といふ本が発見され、序に奈良朝末に書かれたとある。内容からするともつと後に書かれたものではないかとも疑はれたが、仮名遣ひを調べてみると、先に述べたやうな13字においてほぼ厳格に区別が認められるので、これは奈良時代に書かれたものと見ていいと考へられる。

・他にも訓の確定や語源を調べるのにも影響する。やや専門的なので内容は省略。